となりまち

2007年11月15日 日常
『隣町』と言う言葉がある。
ファンタジー要素のない普通の人間が主体の、普通の日常を描くお話、
特に昭和後期?くらいのちょっと近代文明が発展してきた年代の話で「隣町にいく」等といった使われ方をする。
ようは言葉の通り隣の町の事なのだが、ただの隣の町ではなく、自分の地元よりちょっと賑わっている隣町、
と言う意味合いで使われる事が多い、と言うかほぼ確実にそのような意味、意図で使われる。

何気ない言葉だが、昔からなんとなく不思議に思っていた言葉だ。
隣町なのだから、自分の住んでいる町(市や村含む)に隣接していればすべて隣町だ。
だが、何故か隣町が自分の地元より賑わっていない、ようは田舎だった場合、この『隣町』と言う単語は使われない。
大抵ちょっと〜〜(地名)に行ってくる、などと地名で表し、何故か隣町とは言わない。
学者じゃないので断言は出来ないが、少なくても個人的にそう感じた。
何故だろうと考えてみると、その答えはおそらくすぐに出るのではないか。
『隣町』は、自分の地元より賑わって栄えている、今風に言い換えればある種の『都会』なのだ。
『隣町の病院』『隣町のデパート』『隣町の図書館』
どれも言葉の意味そのものだけを見れば、単に隣の町にある建物だ。
しかしどれも規模の大きい、立派な建物のような印象を受けないだろうか。

冷静に考えてみれば、わざわざ地元ではなく隣町まで行くのだから、そっちの方が便利で立派なのは当たり前の話だ。
地元にあるものより便利でも立派でもないならわざわざ行く必要はなく、
必然的にそれは「隣町の建物」であってもそう呼称される機会は殆どない。
だからこそ、わざわざ呼称される『隣町』は特別で、そう言われるだけで何となく立派で素晴らしいものに聞こえるのだと思う。
『隣町の病院』は立派で綺麗で、入院設備も整っている。重い病気の人は地元の病院ではなくそこに入院しに行く。
『隣町のデパート』は大きくて品揃えも良くて、たまに家族で買い物に出かけて、美味しいレストランで食事をする。
『隣町の図書館』は蔵書が多くて、地元の図書館では置いていないような立派な本も揃っている。
そんな、便利で素敵だけど、行くのはちょっと手間がかかる場所、それが『隣町』という言葉で表される場所なのだと思う。

色々と便利になった現在、隣町どころか県外まで気軽に出かけられる様になった。
隣県の巨大ショッピングセンターに買い物に行くのは全く珍しい話ではなくなった。
『隣町』への距離は、物理的には変わらず、時間と手間から見ると格段に近くなった。
でも、出かけると親に言われただけで子供が喜ぶような、そんな『隣町』への距離はとても遠くなってしまったのではないか。
便利になるのは良い事ではあるが、そんな物悲しさも付きまとう。
せめてお話の中だけでも『隣町』はあり続けて欲しいものだ。

って言うまとめはちょっと真面目すぎる気もするけどまあいいか。

コメント

最新の日記 一覧

<<  2025年5月  >>
27282930123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

この日記について

日記内を検索